わが町にも歴史あり・知られざる大阪165

 幣原兄弟  門真市

2010年5月20日付「毎日新聞」より

 

■弟・喜重郎

73歳“過去の人”に首班指名

民主化改革や憲法草案、「野に叫ぶ国民の意思」胸に


  幣原喜重郎内閣は、皇族内閣の東久邇(ひがしくに)内閣の後を受けて、1945(昭和20)年10月に発足した。五百旗頭真・防衛大校長は著書「占領期 首相たちの新日本」で、組閣の大命が下った喜重郎を囲んだ新聞記者の中に、「まだ生きていたのか」と口をすべらせる者もいた、というエピソードを紹介し、「忘れ去られた過去の人になり果てていたのである」と記している。

 その「過去の人」を引っ張り出したのは、外務省の後輩にあたる吉田茂外相だった。東久邇内閣の後継首班を打診された吉田は、これを断り、喜重郎を推薦。自身が説得に乗り出すが、73歳の喜重郎は応じない。最後は天皇との会談で、心を決めるに至る。

 こうして誕生した幣原内閣を待ち構えていたのは、GHQ(連合国軍総司令部)が矢継ぎ早に打ち出す民主化改革の実行だった。公職追放や婦人参政権を認める選挙法改正、労働組合法などなど。

 46年の元日に出た天皇が現人神(あらひとがみ)であることを否定した「人間宣言」は、喜重郎が英文で起草した。これで心身ともに疲労したのか、急性肺炎にかかって伏せることになる。前掲の「占領期」は、平和主義を打ち出していることに注目している。

 この内閣の最も大きな仕事は、憲法改正案を作ることだった。同書によれば、46年1月24日のマッカーサーとの会談で、喜重郎が侵略戦争放棄の立場を表明し、天皇制維持で合意したという。憲法9条の精神は、この会談が大いに関係しているといえる。

 幣原内閣を語るとき、必ず引用されるのが「野に叫ぶ声」だ。45年8月15日、玉音放送後に喜重郎は電車内でこんな光景に出くわした。若い男が突然の無条件降伏に「自分たちは目隠しされてと殺場に追い込まれる牛のような目に遭わされた」と泣き叫び、乗客たちもうなずいていた。喜重郎は感激し、「野に叫ぶ国民の意思」の実現を決意した、という。私心のない人柄をよく表わしていると言えるだろう。

 幣原内閣は約半年の短命で終わったが、喜重郎はその後、吉田内閣で国務相を務め、新憲法の公布を見届ける。新憲法の下で行われた総選挙に大阪から出馬し、衆議院議長も務めた。もっとも東京に居住しており、大阪には戻らなかった。51年、在職中に80歳で死去した。

 門真市立歴史資料館には、幣原兄弟の展示コーナーがあり、喜重郎が愛用したステッキなどが並ぶ。パネルには、憲法草案は兄坦(たいら)の協力も得たとある。「9条の会」の関係者が見学に来るという。

 

■弟・坦

枢密院・最後の顧問官

  一方の坦は歴史学者で教育者だった。明治時代に韓国の要請で、新設中学に「お雇い教師」として務めた。琉球文化に関心を抱き、「南島沿革史論」などを著している。

 韓国から帰国後、学事を視察する部省視学官や東京帝大教授を兼任。講座開設の準備に欧米各国に派遣された。1920(大正20)年文部省図書局長時代には米英独などに半年、留学した。弟が外交官なら、兄も早くから世界に目を向けた国際派だったわけだ。

 1928(昭和3)年、設立された台北帝国大の総長に就任。戦中には南洋や中国で活動する青年を育成する大東亜錬成院の院長を務めたが、運営について軍部とそりが合わずに辞任している。このあたり、兄弟共に「長いものに巻かれろ」とは対極にあった。

 大戦後は枢密顧問官に任ぜられる。枢密院は天皇の諮問機関で、大日本帝国憲法下の「憲法の番人」だった。新憲法発布で廃止される1947年5月2日まで、「天皇機関説」の美濃部達吉らと「最後の顧問官」を務めた。兄弟ともに憲法に深いかかわりがあったのだ。53年、門真で84歳で死去。

 歴史資料館には、かつて小学校に掲げられていた「得力處」の額がある。「力を得るところ」と読む。知の人だった坦らしい書だ。

                            【松井宏員】

 

わが町にも歴史あり・知られざる大阪 164 幣原喜重郎 門真市 2010年5月13日付「毎日新聞」より

わが町にも歴史あり・知られざる大阪 163 幣原兄弟顕彰碑 門真市 2010年4月29日付「毎日新聞」より  

   


わが町にも歴史あり・知られざる大阪 西三荘 門真市・守口市 2010年4月15日付「毎日新聞」より